Fun Sailing
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松永 香さん
外洋ヨットレースの魅力ってなんですか?

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photo by Kaori Matsunaga

[プロフィール]
松永 香(まつなが かおり)
1964年、東京生まれ。小学生の時に読んだ『ダブ号の冒険』に感銘を受け、ヨット部のある千葉県立磯辺高校に入学。ディンギーレースで頭角を表し、インターハイや国体などで活躍する。その後、外洋レースの世界へ進み、日本海レース(1987年)、オークランド〜福岡レース(1989年)、メルボルン〜大阪ダブルハンドレース(1991年)などに出場。1993〜94年、目標としていたウィットブレッド世界一周レース(現ボルボオーシャンレース)に、女性チーム〈ハイネケン〉のメンバーとして挑戦した。レース終了後、多国籍チームでの活動経験と操船実績が認められ、環境保護団体グリーンピースの国際南極キャンペーンに参加。同キャンペーンで知り合ったデンマーク人メンバーと結婚、二児の母となる。結婚後もヨットとの関わりは続き、レース艇の回航、外洋レースサポート、プレジャーボードの保険業務などを経て、現在、葉山港管理事務所(株式会社リビエラリゾート)勤務。

--- ヨットに出会ったきっかけはなんですか?

小学校の高学年の時に、16歳の少年がヨットで世界一周する『ダブ号の冒険』を読んだことです。実在の主人公、ロビンが挫折したり、悩んだりしながら、さまざまな困難を乗り越えていく過程にも共感し、私もいろいろな土地へ行き、いろいろな国を見てみたいと思いました。

中学生の時、父の知人の花村金吾さんが持つクルーザーに乗せてもらい、ますますヨットに興味を持つようになって、ヨット部のある高校への進学を希望。それが千葉県立磯辺高校でした。

高校でヨット部に入った私は、学校が終わると毎日、天候などが許す限りヨットに乗っていました。でも、入部前に思い描いていたイメージとはほど遠かったことを思えています。というのも、ダブ号も、父の知人のヨットも、いわゆるクルーザーと呼ばれる大型艇でしたが、高校が所有するヨットは、ディンギーと呼ばれる小型艇だったからです。

さらに、運動があまり得意ではなかった私は、いろいろ苦労しました。考えてみれば、ヨット部って運動部ですよね。また当時は、真冬でも半漁人と揶揄される、真っ黒でゴワゴワしたウェットスーツしか着るものがなかったのですよ。

それでも続けたのは、いつかクルーザーで遠くへ行きたいという思いが強かったことと、インターハイなどに出場したことで、ディンギーレースの面白さに目覚め、勝ちたいという気持ちが芽生えたからです。

ところが、大学時代は海ではなく山へと足を運んでいました。進学した大学にヨット部がなく、気楽な気持ちで山岳部に入ってみたら、最初からいきなり大きなリュックを背負って雪渓へ行くような本格的な部だったのです。学生時代は北アルプス、南アルプス、北海道など山三昧。雪山も経験しました。

ただ当時も、時々は父の知人のヨットに乗せてもらい、また大学2年生の時には、千葉県代表として国体のヨット競技に出場しました。ヨットで遠くへ行きたいという夢は、漠然とですが持ち続けていたわけです。

--- 世界一周レースを目指したのはなぜですか?

大学を卒業した年のこと。いつもクルーザーの乗せてくれる知人が、すごいヨットが来ている、と言うので彼のホームポートの清水へ飛んでいくと、自作ヨットであちこちに出かけている〈オケラ〉の斎藤茂夫さんがいました。外洋レースをやっている人に会うのはこの時が初めてでした。

その後、毎週末清水へ通って〈オケラ〉に乗船するようになると、その年の夏に小樽からナホトカへ行くヨットレースに参加すると言うではありませんか。そのときはすでに私もクルーの一員だったので、ごく自然にレースに参加することになりました。この「日本海レース」が、私にとっての初めての外洋レースとなりました。

外洋レースの醍醐味はいろいろありますが、ヨットの上で日が暮れて、また日が昇り、風と波の音を聞きながら、見えない陸地を目指してひた走る…あの感覚がなんともいえません。

フィニッシュすると、そこにはスタート地点とは別の文化があります。虜になりました。もっともっと、こういうレースに出たいとつくづく思いました。それが世界一周レースへの挑戦に繋がったのだと思います。

--- 世界一周レースに出場してなにを感じましたか?

外洋レースにすっかり魅せられた私は、究極の外洋レースであるボルボオーシャンレース、当時の「ウィットブレッド世界一周レース」への挑戦を考えるようになります。そして、1989-90年大会に女性だけのチーム〈メイデン〉が出ると知り、クルーの選抜試験を受けるためにイギリスへ渡りました。

ところが、スキッパーから「英語を勉強しから戻ってきて」と言われる始末。当時、英語はほとんど話せませんでした。そこで、英語の勉強をしにニュージーランドへ。ちょうど、「オークランド〜福岡ヨットレース」が開催される年だったので、外国艇に乗ってレースに出れば長距離レースの経験も積めて一石二鳥だと思ったのです。

出場艇に片っ端から電話をかけ、クルーにしてほしいとお願いしました。そのうちの1艇からOKをもらいレースに出場することができたのですが、最終的に〈メイデン〉のクルー選抜は落選。英語を勉強してこい、というのは体の良い断りだったのかもしれませんね。でも当時の私はどうしても諦らめきれず、次を目指そうと思いました。大勢の人に応援してもらったのに、スタートラインにも立てなかった自分が情けなかったのです。

次の大会は4年後。その間はヨットの回航や、2人乗りの長距離レースである「メルボルン〜大阪ダブルハンドレース」に出場し、コツコツとキャリアを積み重ねました。そして、1993-94年大会で女性チームのクルーになることができたのです。

チーム名は当初〈USウイメンズチャレンジ〉でした。しかし、第1レグが終わった時点でスポンサーが撤退し、プロジェクト解散の危機に見舞われてしまいます。愕然としていた時、ビール会社のサポートを得て〈ハイネケン〉としてレースが続行できることになりました。

しかし喜びもつかの間、南氷洋が舞台の第2レグで、私は精神的に落ち込んでしまいます。4年間、とにかくレースに出たくて必死にやってきたことや、チーム存続の危機など、すべてが一気に押し寄せ、疲れていたのかもしれません。

念願の世界一周レースに出場できたのに、まったく楽しめない…。なんとか寄港地に到着した私は、次のレグがスタートするまで、10日ほど日本に一時帰国することに。結果的にはこれが良かったようで、それ以降は気持ちを切り替えてレースに望むことができました。

第3レグも第2レグ同様、南氷洋を進みましたが、大荒れの海でもオルカを見つけて嬉しくなったりして、過酷な状況を楽しむ心の余裕ができたのですね。〈ハイネケン〉はレース終盤で舵が脱落するなど、最後の最後まで波乱万丈でしたが、その分、フィニッシュ時の感動はひとしおでした。

外洋レースは長丁場です。自然相手なのでどうしようもないこともありますが、同じ環境でも自分の気持ち次第で状況はまったく変わるということに気づきましたね。

kiku_1_matsunaga_1世界一周レースに出たのはもうずいぶん前のことですが、いろいろな国のセーラーと世界中の海を走り回った経験は、間違いなく私の大きな財産になっています。

私もそうでしたが、未経験の世界へ足を踏み出すのは勇気のいることですよね。でも受け入れてくれる人は必ずいますし、その先には楽しい世界が広がっていると思います。ありきたりですが、まずは一歩を踏み出してきてください。例えば、体験クルーズなどで海から陸を見るだけでも、その違いにきっと驚くと思いますよ。

インタビュー/西朝子
右写真 / photo by Sachie Hamaya
2015年5月29日掲載